あるヨギの独り言

毎日を楽しく生きるヨギの自叙伝(日記)。 名古屋でのヨガインストラクターとしての生活やヨギとしての旅を続けるYoshiの成長日記です。

2010年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年05月

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継続は力なり。すなわち、プラクティスなり。

ちゃま先生のワークショップ4年前にMySOUL8で行われ、
気がつけば11回目となっていた。

これを買いいている今、ちゃま先生はスタジオでアシュタンガミニ講座をしている・・・

復習になるので参加したかったけど、
自分の講座が3時間弱(もしくはそれ以上)あるので、朝練だけにしておいた。

休憩も大事だ。

ヨガの練習とは、
継続的に努力と忍耐で意識的にされることが前提となっている
(ヨガスタジオではこれを前面に出さずに巧妙にするように働きかける
ことが大事なのだが)、ので11回も継続的にされているという事実は
嬉しい。

これがよい雰囲気という、場の作り出すエネルギーを大切にしてきた
結果だと多くの人は認めるどころか、その意味も分からないだろうけど、
自己満足でいいのだ。

ヨガのプラクティスに関わるもの意外は行わないという行為も、
サトビックな場の雰囲気を作り出す結果へとつながることを期待しているのも
言っては自己満足だ。

それでいいのだ。

これこそ理屈ではない。

今、ちゃま先生のワークショップには名古屋で有名アシュタンガティーチャーや、
ヨガの理解を深めたい生徒や、ヨガをもっと上手く教えたい講師など参加している。

自分も、ちゃま先生のアジャストメント講座には3回(4回?)も参加し続けているけど、
何度も何度も参加することで本当に理解が深まる。

特に何かを伝える立場の人こそ、色んな異なることに飛びつくのではなく、
同じ方向性のものを何度も、何度も参加することが大事だと思う。

すなわち、努力と忍耐が必要なのだけども。

MySOUL8のスタジオの先生達の中ではスタンダードな姿勢なのだけども、
そういった姿勢を持つヨガ講師を目指す人々が現われてきているのは嬉しい限りだ。

よけいなおせっかいかもしれないけど、
ヨガの練習を継続的にしていない人がヨガスタジオを運営していて、
いきづまっているのなら、遠慮なくたずねて欲しい。

ヨガがより良く伝えられる環境が少しでも増えることは望ましいのだ。
外の人だからこそ、厳しく指摘できるということもある。

そして、あまり知られていないのだが、
自分は経営のプロでもある。
会社は社会において、身体のようなものなのだ。そこにいる人が心である。
なんらヨガの道と変わりがない。

多くの人は、大学院前期課程・経営学修士であるMBAとヨガは関係ないと別に見るけど、
(その行為は理解するためにはやさしい方法かもしれないけど)、
ねじれたものを浄化してエネルギー(活力)のよく通るものへとする目的は同じだ。

まぁ、会社を運営するのと経営するのは、ヨガの自分の練習と教える為の練習が別のように
違うのだが・・・(経営は、それはそれで勉強しないといけないものです。
やれば何とかなるものでもないです・・・)。

今まで、自分の周りの環境を良くすることだけを考えて、
周りのヨガ教室がしていることなど視界に入ってこなかったけど・・・

現実、
ちゃんとヨガに向き合い、どんなヨガなのかを明確にしていて
運営しているヨガ教室が(そうじゃなくとも目指す方向を
せめて模索しているヨガ教室が)1つくらい出来てもいいころだ。

ヨギの、ヨギによる、ヨギのためのヨガ教室。

だから、ちゃま先生が名古屋に来ると嬉しい。

ワークショップやマイソールクラスも勉強になるが、
ヨガの市場の話をしているのが楽しい。

東京は名古屋と違って競争が激しい。広告的に相当有名であるか、
本物でないと成り立たない。有名であっても本物でないと成り立たない。
まぁ、本物の基準はおいておいて・・・

もちろん、ボディワークの勉強に励んでいる、
ちゃま先生との身体に関する話も刺激的だ。

導く先に希望があり、もちろん、失敗や反省もあるのだが、
与えることによってもらえる、大いなるものは値がつけれない。

すなわち、プライスレスだ。

それもプラクティスなのだ。

すべてはプラクティスなのだ。

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| [ヨギの独り言]ヨガの先生達 | 15:10 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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薬付け天国、ドラッグ天国。

頭痛が起こると・・・・

痛み止めを飲んでおけばいい。。。という人ばかりだ。

異議を唱えると、険しい顔をされる。「どうして?」「何、また変なことを言って!」

と・・・・彼らの主張はこうだ。

☆ 痛みがなくなれば普通でいられる。

☆ 仕事が出来る。

☆ 友達と楽しく話せる。

☆ 買い物が出来る。

でも、自分から見える、その世界は奇妙な世界だ。
それは、痛みから逃避しているとしか見えない。

大事なのはなぜ、頭痛が起こったか? じゃないのか?

身体が痛みとして心にうったえている何かのサインだ。

その必要な痛みを打ち消して、無感覚(無意識)に生きようとする。

そして、生きさせようとする、お医者さん達にも責任はあるのかも。

もちろん、極度に身体に異変がある場合は(手術など)、
その副作用の代償を払ってもする必要があるのはわかる。

ただ、治療がケアではなく、治すことではなく、処置になっている場合が多いこともある。

苦痛をただ取り除く処置に。

痛みを取り除く、麻薬のような麻酔(痛み止め)。

すべての(身体の中にいる良い細菌まで)ものを消滅させる抗生物質。

(お)医者(様)が悪いのではない。

彼らこそ、何の疑問もなく、自分達が薬漬けになっている。

自分はドクターの友人が多いので知っている。彼らはいかに薬漬けになっているか・・・

漢方も聞こえはいいけど、成分は西洋の薬と類似していたり・・・

劇的に効く薬は、劇的な副作用があると思った方がいい。

何が悪くて、どこから変になってしまったのだろうか?

世の中は、見れば見るほどおかしなことだらけだ。

異常じゃなければ、正常にいられないのかもしれない。

正常なことを言う人は、魔女狩りにあう。。。。

いつの時代も、正しい間違っている、関係なく少数派(マイノリティ)が
異端であり、間違っているとされるのだ。

こういう意味でも、世の中は矛盾に満ち溢れている。

いつまで胸を張って、曇った世界におおわれた煙を払いのける戦いを続けられるのだろうか?

発言力を持った時に、今まで自分を変人扱いしてきた人々が媚びへつらって来た時に、
笑って彼らを抱きしめる器が自分にあるだろうか?

彼らに悪気はないのは分かる。 ただ自信と真実を見る眼がないだけなのだから・・・

医療の世界でも、カテーテルという血管の中を通して治していく処置を発明した
何とかという人も30年以上も変人扱いされていたという。

今ではスタンダードな処置だったりする。

みなぎる力が少しない気がするとき・・・ささやきが聞こえる。。。

『バガヴァッドギータ』のささやきが・・・

「戦え! 勇ましく戦え!」

「自分の義務を遂行しなさい!」

勝つことも・・・負けることも・・・等しく感じ、信じる道(ヨーガ)を行くしかない。


| [YOSHI ' S LIFE]趣味 and 興味 | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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輪廻する発言。

生まれて(最初の呼吸をして)から最初にすることは言葉を発することだ。

言葉とは意識的に作り出されるものと、習慣などで無意識に作り出されるものがある。

言葉は重要だ。

言葉が重要だから、それを伝える方法、コミュニケーションの方法も大事になってくる。

何を言葉にするかが重要だ。 その結果、何も言葉にしないことも重要になってきたりする。

それは、すべて心の作用(働き)に関わってくる。

思考され、感じたことをベースに言葉が変化していく。

その言葉と、している行動が違っていると困る。

自分がどんな行動をしているのか無意識で、言葉も無意識に発せられていると、困る。

困るというか、残念だ。 これを無知という。

無知は苦しみの原因だ。 結果、不幸になる。 だから、残念だ。

言葉はそれぐらい重要だった。

感覚器官(5感)で手に入れた情報に対して感じたことが言葉になるからだ。

ナチュラルに生きるとは、何も考えないでお気楽に生きるのではない。

5感で感じたことから何を思ったかを見ていくことだ。自分に対して、相手に対して。

だから、大事なのは5感で感じたことが言葉にされるまでの過程(プロセス)ともいえる。

こうやって、ここで書かれていることを読んだからといって、書き手が理解できることはない。

自分の経験の中に、共感するポイントを見つけて「うん。うん。」と頷いているだけだ。

塩をなめて、渋い顔して、「甘い~っ」という発言に真実はあるだろうか?

表面しか見れない人は、表面的にしか表現できないのかもしれない。
(じゃあ、表現する人はそこを観察することが重要だと逆説的な方程式は成立するのか?)

5感で感じること(原因)に対するリアクション(結果)を観察することが瞑想なのかもしれない。

瞑想している自分を鏡で見ることも瞑想というのかもしれない。

言葉はそれぐらい重要だった。

昔において・・・後に、発言は紙や本などに残せるようになり・・・

そして、さらにテープや音源として残せるようになり・・・

今に至ってはデータとしてネット上に残せるようになった。

発言として。

何千年前の言葉における意味や価値は『真言』などで残っているように、儀式的なものや
呪文的(マントラ)なものとして、強かった。

現代は?

紙、手紙、ノート、本、テープ、CD、DVD、メール、携帯メール、
ブログ、ツイッター、ミクシイ、SNS。。。。。等、など、など。。。

多くの発言を残す場所がある。

しかし、そこに五感で感じた時に見せる表情やしぐさは載っていない。

経験をつめば、予想はつくことが出来るかもしれないけど、マッスグには伝わっていかない。

誰かの発言から、共感できる発言を伝えるような引用もそうだ。

注意しないといけない。

読解力が問われる時代になってしまったのだ。

発言は巡り巡って、自分に振りかかってくる。

マッスグではないねじれた発言こそ、カーブして(曲がって)自分に返ってくる。

輪廻するのだ。

・・・・こわいなう。

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今月のMyヨガクラス。

今月のメインテーマは、Lokah Samastah Sukhino Bhavantu

ジヴァムクティセンターでの発表による英訳は 東京のヨガ講師:akkie によります~

自分でもしようかと思ったけど、訳の完成度に脱帽しました~

アシュタンガ・ヴィンヤサヨガの終わりのマントラの最後の部分でも引用されている
美しいマントラです。
文章は、ジヴァムクティのシャロン先生のヨガとヴェジタリアンの本より~

カッコ内の赤字は自分の心の声です。。。

『Lokah Samasah Sukhino Bhavantu』

(意味)
あらゆる場所の、あらゆる存在が幸福で自由でありますように。
そして、私の人生における思考、言葉、行動が全て存在の幸福と自由に貢献しますように。

もっと詳細にこの祈りのマントラの言葉ひとつひとつの意味を調べてみましょう。

■Lokah: 場所、領域、現在存在している宇宙すべて

■samastah: 同じ場所を共有しているすべての存在(いきとし生きるもの

■sukhino: 幸福と喜びに専念すること、苦しみから自由であること

■bhav: 神聖な雰囲気あるいは一体化の境地

■antu: ~でありますように、~であるべき
(antuという言葉は、最後にあることでこのマントラを効力のある誓約としているのです。

これは、私たちひとりひとりが毎日実践することができる祈りです。
それが私たちに思い起こさせるのは、私たちが幸福と苦しみからの解放を望むのであれば、
私たちとすべての存在とのつながりはお互いのためになるべきだということです。
他の存在に不幸を引き起こしていては、私たちは真実も永続する幸福を得ることはありません。
他の存在から自由を奪っておきながら、私たちは真実も永続する自由も得ることなどないのです。
もし私たちが、あらゆる存在が幸せで自由であって欲しいと口に出すのなら、私たちがどのように生き、
どのように食べ、何を買い、どのように言葉を話し、
どのように考えるかさえも含むすべてのことを問いなおさなければなりません。


karma(カルマ)とは、“行動“のことです。
それは、すべての行動、つまり思考、言葉そして行いを含みます。
カルマの法則はすべての行いにはその報いがあると告げています。(原因と結果
アルバート・アインシュタインは、空間が湾曲していると指摘したとき、
私たちにカルマの法則を思い起こさせ続けていたのです。
それがなんであれ放たれたものは結局、でも必ずその出発点に戻ると見いだされたのです。
つまり、私たちは何を考え、話をし、行動するのかについて注意深くあらねばなりません。
なぜなら、私たちは自分たちの行動の報いを受けるだろうからです。


まっすぐ解き放たれた物(飛ばされた石であれ、ボールであれ、)や発言(空間を響いていく声)、
まっすぐ自分に向かってきている光であれ、まっすぐのように見えるけど、
実は緩やかにカーブをしていて、その原因により結果としていつかは大きな円を描き
自分に戻ってくるということですね。



この考え方が良く分からない人がいるかもしれません。
それは私たちが今まであまりにも、他の存在を隷属させ、暴力的で、
拒否の態度ばかりの文化になれているからです。
(過去の歴史のことを言っています。アパルトヘイト、奴隷問題、自然破壊、侵略、などなど・・)
私たちは何度も何度も主張してきました。
私たちは自分の行動に責任を持つ必要はなく、私たちの行動のひとつひとつは全体にとって問題にならず、
まして私たち自身にはもっと影響のないものだと。
アメリカ合衆国では、ある人の行動が問題にされたり、異議を申し立てられたりしたときに、
“ここは自由の国だ!”と繰り返し言われます。法的には自由です。もちろん。
しかし、私たちの行動は何をもたらすのでしょうか?
私たちの行動は、未来の世界をどのようにかたちづくるかを決める重要な側面なのです。
すべては両極により成り立っている。全体を意識しながら我を見つめ、
我の内側より全体を見つめる。バタフライエフェクト(蝶々の羽の作り出す小さな風が原因となり、
地球の反対側で結果として巨大な竜巻を作る)のように、自由に起こした行動が全体を巻き込む
ような影響を秘めていることを知ることは重要だということですね。)



私たちの未来は、今私たちが動物たちに何をしているかによって苦難を受けると断言します。
私たちが肉、卵、乳製品を食べることを選んだとき、私たちは生きとし生けるものに対して、
彼らが望みながらも得ることがとても困難な幸福と自由を拒絶したことになるのです。
(これは人類が無理やり牛や鳥や犬達を交配、繁殖させたり、狭い檻に入れて食用だけに
不自然に育てたりしている現実からの意見ですね。)

これらの戒めは数千年前から現在までかわりなく意義があるとされるヨーガスートラまでさかのぼります。
私たちはそれぞれ、複雑に絡み合ったカルマの網の目を織り上げ、そこに絡まることでしょう、
現実が私たちの行動によって作り上げられつつあるように。
私たちがlokah samastah sukhino bhavantuを唱えたり、話したり、あるいは考える時、
もし“すべての存在“という考え方に、地球を共有している他のすべての動物たちを含めるなら、
食べ物として利用している動物たちを含めるなら、
私たちがそこに生きたいと願う慈悲に満ちた世界を造り始めることができるでしょう。
(我々は、相手を思いやるという全体を意識することによって個が幸せになることができるという、
矛盾のあるような世界にいます。身近にいる相手ではどうしても実感が持てない場合もあります。
なので、すべての生き物に対してまで対象を広げることにより、大きな世界から
個という自分自身の大切な部分が
、ぽっ!と、浮き上がるのではないでしょうかね?)


ヨーガの練習は私たちを正しい行いと、
他の存在の幸福に対する思いやりによって動かされる、ライフスタイルに導いてくれます
私たちが他の存在をどのように扱うかということと、
私たち自身の幸福と悟りとの結びつきを理解するための最初の一歩は、
ヨーガの練習が明らかにしてくれることの深遠な側面に目を向けることなのです。
(ヨーガの練習をインストラクターの魅せる(見せる)ポーズのまねをしてするのではなく、何かに意識を
置いて繰り返しされ、ハタヨガの効果により、瞑想をしているような感覚により、
見えてくることがあると思います。興味がわいてくることもあると思います。
習慣によって当たり前とされる事柄を正しいと思っているけど、実は(他の国では)異なっていたり・・・
その感覚をヨーガの練習でシェアできたらいいですね。)


-Sharon Gannon, adapted from Yoga & Vegetarianism

| [ヨギの独り言]Yoshi ヨガクラス | 19:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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エイプリルフール の嘘を自粛せよ!

面白い!

というのは、この内容自体が嘘かもしれないということなんだけど・・・

(以下、NAYOGAさんのブログからの抜粋)

今年は内閣府から
「NaYOGA様 毎年貴団体が毎年4月1日に書き込んでいるエイプリルフールに関する記事で困惑されている方が多いので本年度のエイプリルフールの記事はお控え下さい。」
と連絡をいただいたので今年のエイプリルフール記事は自粛します。


でも、全国の小学校や中学校の体育の授業をヨガにするべきだというのは、
昔から自分も提案している。

林間学校を義務化せよ!

文武両道を目指せ!

などなど・・・

ちなみに、このブログでヨガしている場所は、MySOUL8 ヨガスタジオですよ~


| [YOSHI ' S LIFE]DAILY LIFE | 21:10 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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これはこれ。それはそれ。

あれは、あれ。

そうやって考えるのが簡単だ。

この場では笑っておけばいい。。。ちょっと我慢すればいいのだ。

次回、そんなシチュエーション(状況)が来たら、また笑っておけばいいのだ。

の繰り返し・・・それは、それ。これは、これ。あれは、あれ?

あなたは誰(だれ)?

焼肉のたれか!!!!(怒)

って、怒ってないですが・・・

分かっています、総合的に考えるのがいかに疲れることか・・・

疲れるという苦痛を伴う作業だということ。

面倒だという苦痛を伴う作業だということ。

頭を使って集中するという苦痛を伴う作業だということ。

そうやって、どんどん自分を遠ざけていく。

自分探しの旅は楽ではない。すなわち、苦しいというものだ。

苦しさは熱を作り出した(こすった)後の、垢(あか)のようなもの。

残りは垢のとれたキレイな肌が残るようなもの。(浄化)

熱を作る作業を、『苦行』と呼ぶ人達がいる。

嫌なことに目を反らさず、熱を、苦行を、情熱に変える人達だ。

会社でも、個人でも、組織でも、コミュニティでも、何をどうしたいかを考えるのは苦痛だ。

でもあえて聞く。 

何をしたいですか?
どうしたいですか? 
あなたは誰ですか?

そこから始まる。

私は喜ぶ人の顔が見たい。 それを見ることによって癒されたい。

それが私のエゴだ。 自己満足だ。 足りることのない満足だ。

自分の与えたい知識は、教養は、知性は、感性は、無限大だ。 高めたい意識も無限大だ。

世界は苦痛に満ちている。 それを直視することのみが苦痛を和らげる。
そう、宇宙は矛盾に満ちているのだ。

その為の実践は色々ある。

明日は 『大いなる大儀に意識をおいて瞑想しよう! Meditate for Cause! 』だ。

キルタンと同じだ。参加しないと感じれない。シェアできない。

興味ある人はここをチェック!

いつも主役は参加者だ。

今週はイベントがいっぱい。

いつも、世界中のヨギ達を連れて行って、みんな大満足してくれる マクロビ食堂『和家(和やか)』さん

などが主催お花見イベントする。やヴぁい盛り上がり。 ほんわかローカル盛り上がり、やヴぁ町(矢場町)です。

14時から19時ぐらいまで、ライブあり、出店いっぱい、桜いっぱいのローカル祭りです。

確か・・・年2回だけのイベントですが、いつも偶然、タリック先生が来ていたり、マイヤーズ純さんだったり、
ドミニク先生だったり、誰かと一緒に参加してきました

今年はワークショップはないけど、自分もどこかにふらふらいるので見つけたら超えかけてください~

たぶん、4時頃にいます~




| [YOSHI ' S LIFE]趣味 and 興味 | 15:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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