あるヨギの独り言

毎日を楽しく生きるヨギの自叙伝(日記)。 名古屋でのヨガインストラクターとしての生活やヨギとしての旅を続けるYoshiの成長日記です。

2010年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年09月

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

1Q84をよんでみて

よんでみて
読んでみて

と、書くと主語がないので(自分が)読んでみての話なのか?

(誰か)読んでみて!なのか分からないが、

これが日本語の良いところである。

答えばどっちもだ。

自分で読んでみて思ったことが、『みんな!読んでみて!』 だ。

ところどころにヨーガという単語が出てくる。

主要な人物達はところどころで身体をなまらせない為にストレッチをする。

村上春樹はヨガをしているのだろうか?本からの知識なのか?

ただ、1984年ごろにヨガマットというものがあったとは思えない。

小説の時代には、ヨガはヨーガと発音されていた。

よく、ヨーガが正しい発音です!といいながら、
アーサナをアサナとか言って他のサンスクリット語がでたらめな人がいるけど
(それはまぁ、いいとして・・・・)・・・

自分はサンスクリット語の発音のクラスを受けて実感した。
こりゃ英語の発音はイギリス人とアメリカ人で違うようにインド内でも違うし、
こだわっていたら発音すらできない。すべてのこだわりを捨てよう!と。
それよか、意味を感じながら発音した方が幾分ましだと。

何かを得るということは何かを捨てるということなのだ。

何かを得るということは何かを捨てる・・・

これは小さいころよりの自分のルールなのだが、1Q84にも良く出てきたフレーズだった。
そんなことをいうような内容の経典にはまだ出くわしてないが、
何かユニバーサルルール的な普遍的なことなのかもしれない。

話がそれたけど・・・

単体ではヨーガの発音はしやすいけど、何かの名詞と繋がると発音しづらくなる。
これは日本語を発する口だけそうかんじるのかもしれないし、自分だけかもしれないけど、
ヨーガマットとはいいづらい。

『ヨーガマット。。。』

・・・ヨガマットでいい気がした。

何はともあれ、何度か違和感のあるヨーガマットという単語を見ながら小説を読んだ。

久しぶりの一般小説だったから新鮮だった。
(いつもヨガ本やビジネス本やクーリエなどの記事ばかり読んでいるので・・・)

1984年ではない世界。1Q84年という世界は原因と結果が繋がっていない世界なのだ。
だから不思議なことが多く起こる。
つまりカルマの法則(原因と結果の法則)が成り立っていないのだ。

自分ではない、両親の信仰や強い信念に無理やり抑圧されて生きていた2人の男女が
そのカルマから逃れることができる世界へと行くのだ。
ヨガの言うところの(カルマの輪廻から脱する地点)解脱の地点へと。

その世界においてはヨガや仏教でいうところの神とは違う形としての神的なものが登場する。
何かの秩序を守るものだ。彼らの意思を聞けるもの(意思にきづくもの)はレシーバーとして登場し、
それを伝えるものとしてパシーバーとして表現される。

これをわざとかは知らないけど、ヒンズー教におけるシヴァ神ともじってか?
レシヴァとパシヴァで表現されている。

いかにも漫画的な展開ともいえるファンタジーだった。

これが漫画だと読まなくなる人がいて、小説だから読む人がいる。

人は自分の中に異なるレシヴァな部分とパシヴァな部分を持っている。

明確な神などいないと信じる自分から見れば、
すべて感情が作り出した好き嫌いにしか見えないのだけど・・・
食べものを好きだとか嫌いだと言っているのと変わらない。

お菓子は食べないけど、レストランのスィーツは食べる。

がりがり君は食べないけどハーゲンダッツは食べる・・・

誰もが見ても同じような5本の指で・・・

その話もいいとして、この世界観が村上春樹なのだろうか?

『ジョジョの奇妙な冒険』を読んだときのような奇妙観とも違う、
『江戸川乱歩』を読んだときのような奇妙観とも違うなにか・・・

読んだあとはその奇妙観が普段の現実と混ざり始める・・・↓↓↓こんな風に・・・

(以下はツイッターでのつぶやき模様です・・・)

■1Q84 にはまる。不思議な世界だ。れShive神とパShiva神。 7:57 PM Aug 20th webから
■不思議な小説を読むと奇妙なことに巻き込まれる。受けて(レシーバ)の問題か?7:58 PM Aug 20th webから
■会社で1人で仕事をしていると電話が鳴る。 7:58 PM Aug 20th webから
■自分のデスクの電話は壊れている。横にしないとでれない。 7:59 PM Aug 20th webから
■これもいつからなのか?奇妙な電話だ。でもなぜか直さない。この不便さが好きなのだ。 7:59 PM Aug 20th webから
■銀行からだ。。。。 7:59 PM Aug 20th webから
■何故だか?今すぐ会社に行きたいのだという。 8:00 PM Aug 20th webから
■3時に閉めて5時には終わる銀行が?何故7時過ぎに? 8:00 PM Aug 20th webから
■奇妙な電話だ。 2010年8月20日 20:00:39 webから
■急ぎのようだからスグクルと思ったら30分後に来た。 2010年8月20日 20:01:10 webから
■昼間の入金作業でミスがあったらしい。 2010年8月20日 20:01:28 webから
■自分がした入金じゃないから分からないし、話を聞いても何にも解決にはならなかった。 2010年8月20日 20:01:58 webから
■会社が動き出す(来週の)月曜日からの問題だ。 2010年8月20日 20:03:42 webから
■彼らには彼らの事情があり、やり方があるようだ。 2010年8月20日 20:04:00 webから
■話をすればするほど自分は無関係のように思えてきた。 2010年8月20日 20:04:28 webから
■お詫びの品の袋には、愛知万博2005年とある。 2010年8月20日 20:05:36 webから
■瀬戸焼の器だ。 2010年8月20日 20:05:50 webから
■何故だか外の袋のセロテープが取れている 2010年8月20日 20:06:19 webから
■セロテープが取れるって何年前のテープ? 2010年8月20日 20:06:39 webから
■答えは包みの袋にすでにある。 2010年8月20日 20:06:58 webから
■2005年かそれよりちょっと前だ。 2010年8月20日 20:07:12 webから
■6年前か・・・ 2010年8月20日 20:07:19 webから
■いつの間にか、真剣に悪いと思っている人の目とそうでない人の目がわかるようになっている自分がいた。 2010年8月20日 20:08:07 webから
■この表現事態が小説1Q84の影響なのだ。 2010年8月20日 20:08:39 webから
■おかげで何年も覚えることができなかった兄弟の生年月日をおぼえれた。2010年8月20日 20:09:03 webから
■奇妙は周りに満ち溢れている。ようはそれを見つけられるかだ。 2010年8月20日 20:10:04 webから
■ダイヤの指輪を拾ったことを思い出した。かくれんぼをしていて車と車の間に隠れていたときにだ。 2010年8月20日 20:10:43 webから
■本物かどうかをしらべたくなった。ダイヤモンドは硬度10だという事は知っていた。どれくらい硬いかはわからないが何よりも硬いということだけは知っていた。 2010年8月20日 20:11:33 webから
■自分の持ち元で1番硬いものといえば、化石採集の時に岩を粉々にするハンマーだった。あれは小学校4年生ぐらい(10歳)だったけど趣味は化石採集だったのだ。 2010年8月20日 20:12:53 webから
■そのハンマーで何度も何度もダイヤモンドをたたいた。 2010年8月20日 20:13:17 webから
■車と車の間に落ちていたこともあり、車から降りるときに落としたのでは?という仮説が真実に近いのでは?と確信に近づいた頃・・・ 2010年8月20日 20:14:24 webから
■ハンマーと地面との角度が緩まったのか?ダイヤモンドは横へと勢いよく飛んで行った。 2010年8月20日 20:15:07 webから
■探したけど見つからなかった。かくれんぼをしていて、今度は自分が鬼になってしまったのだ。 2010年8月20日 20:16:09 webから
■まだダイヤモンドの価値といえば、百科事典に硬度10とでてくる石というぐらいだった。長い年月によりうまれた化石の方が自分には価値があったのだ。 2010年8月20日 20:17:33 webから
■探すのをすぐあきらめてしまったくらいの価値だった。銀行さんとのやり取りも不思議な始まりだったけど、それくらいの価値だった。 2010年8月20日 20:18:47 webから
■あしたには忘れるだろう。 2010年8月20日 20:19:02 webから
■そして月曜日にまた動き出すのだ。興味はないけど・・・ 2010年8月20日 20:19:35 webから

短期間にツイートしまくりだ・・・
これが村上春樹の『1Q84』を読んで自分がレシーヴァして、パシーヴァしたくなったことだ。

簡単に影響を受けることができるのだ。

これも柔軟だからかな?
スポンサーサイト

| [YOSHI ' S LIFE]趣味 and 興味 | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

上海万博への道のり ~④

夜の上海世博

各国のパビリオンもLSDや照明を使って美しく表現しています。

個人的には何年も前から予想というか期待していることがあり、それは、
世界中の構造物が照明やLSDの明かりによって夜の新しい絵を持つこと。

数十年前や数百年前の人たちでは見ることのできなかった新しい絵がそこに現れる。

温故知新。

P1030135.jpg

夜に光が少なかった時代の状態を想像するのも悪くないけど・・・

真っ暗の中に浮かび出る安土城とか・・・(信長も光を愛した人の1人でした・・・)

P1030138.jpg

感覚的には愛知博覧会は(スペースが狭いからか?)ディズニーランド的な密接間がありました。

上海は後に街の一部となる予定なのか1ブロック1ブロックがしっかり区画されていて、
それはそれできれいに整頓されてるのですがテンションが下がったり上がったり・・・

P1030132.jpg

広いからバスで移動するのですが・・・ああ・・・次は何かが見えてきた・・・的なノリです。

昼間は鬼のように人が密接しているのでしょうか?

世界中で乗り物が騒がれていますが・・・

移動バスも混み込みです。

P1030129.jpg

誰かが言っていた道端にゴミだらけ・・・はウソのようにきれいでした・・・

P1030134.jpg


さてさて・・・パビリオンの中には入っていないのか?

1つだけ入ることにしました。

その内容は愚痴ることとなるのでまた次回にでも・・・

| [旅するヨギ]上海 | 09:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

上海万博への道のり ~③

昼間はトンデモ暑いので・・・

ナイト博覧会にした。

P1030092.jpg

さすがにこの時間は入場する人はいなかった・・・

「じゃぁ、空いているかも!」

と、思ったけど・・・人気のあるパビリオンはトンデモ混んでいた。。。

どれくらいかというと。。。

P1030107.jpg
まずは上の写真を見てもらいたい。右側で白く光るのが大人気のサウジアラビア館だ。

ドバイのすべての町を3Dで見れるという大きなパビリオン。はるか遠くにあるのだ。

そして、写真の左下の赤い所までその長蛇の列は続いているのだという・・・

P1030108.jpg
ホントかどうか?望遠レンズで撮ってみたけど・・・

人はいた・・・

ほんの入り口から撮った写真だけど、さっそくパビリオンの中を楽しむのはあきらめた。

外観や雰囲気を楽しもう!

と。

熱気を感じることが重要なのだ。

どうせパビリオンの内容は愛知博覧会と変わらないのだから・・・

iPad の画面の中身の方が彼らもしびれるだろう・・・
(負け惜しみなんだけど・・・)

でも12時まで運営しているってのは魅力的だ。

朝の風景。 昼間の風景。 夕方の風景。 夜の風景。

↓サウジアラビアの隣にあるインド館も神秘的だ。
P1030111.jpg

↓日本館もつまらないらしいけど大人気だった。
P1030117.jpg
屋根の所にあるソーラーパネルが特別らしい・・

↓韓国館も文字で作られた外観・・・
P1030124.jpg

文字の隙間からこぼれる光・・・
P1030115.jpg

建築物の外観だけで楽しむ人もいるのかもしれないです・・・

少なくとも、混みこみのところで並びたくない分楽しめました・・・

| [旅するヨギ]上海 | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

上海万博への道のり~②

こういった話はいつか物語にしたら面白いと思う。

愛知博覧会から上海博覧会へと繋がる5年間、国と国(官と官)、会社と会社(民と民)が
それぞれ交流し、外交があり、国交があり、お金の流れあり、陰謀ありのサスペンス大作。

当時の日本は靖国問題などあり、政治的には日本と中国はあまり良い関係ではなかった。
(実際はたいした問題なのではないが、発言を有利にするために色々揺さぶりを掛け合っているのだ。)

とはいえ、日本から中国へと進出する大企業も増えてきて、サービス業などもたまに進出を考えている
会社など増えている時代だったのだ。

親族が自動車の整備士やエンジニアの専門学校を運営しているので学生募集などで2000年ごろより
上海などによく足を運んでいたり、会社を立ち上げたりなどしていて政府の方々とも交流があった。

彼らが愛知博覧会から学びたいというので、愛知博覧会関係者を紹介するのをセッティングしたりして
2005年は中国酒を死ぬ気で飲んだりしてたのを覚えている。

あの頃から上海万博で商売で何かしら関わるというよりは、人と人とを繋ぐことに興味が向いていた・・

詳細を語ることは良くない部分もあるのではしょるが・・

あの当時(2005年ごろ)、小泉政権で靖国神社参拝などで中国とは本当に仲が悪かったころ、
官は駄目だけど、民では大きな交流が作れるのだ!

愛知博覧会での知恵とノウハウを提供し、民によって国交が、強い関係が築かれる!

「日中間の歴史に名が刻まれる!」と、ある政治家の人を盛り上げ、政府公認の万博アドバイザーまで
彼はなったりもした。あの発言をしたときは坂本竜馬にでもなった気がして鳥肌がたったものだ・・・

その後・・・

議員の中で、上海万博支援議員連盟なるものもできて、多くの議員が加盟し・・・

愛知博覧会の市民ボランティアを仕切る人々と合流し・・

日中友好支援センターができ・・・

さらにそれがNPO法人化され・・・

自分はNPO法人化された辺りから、NPO法人の代表理事をしていた人
(元々NPO法人を違う名前で持っていたという理由から突然参加してきた人)
の物の進め方がどうしても好きになれなくて・・・

イベントも参加しなくなっていった・・・

正直、仲良くしていた政治家の方が上海万博の名誉アドバイザーに任命された時点で、
大きな発言をした自分の言葉に対する責任の呪が解けた気がしていたのだ。

NPOの代表さんは広告代理店を経営していて・・・経費やら運営に会社の売上を乗っけている
のが明らかだったし、打ち合わせで彼の会社に行くたびに会社の内情が感じれたのだ・・・

後に聞く話では・・・その広告代理店は倒産したらしい・・・

同時に日中友好支援センターは解散して、違う名前で活動中らしい・・・

規模は小さくなったけど、愛知博覧会で市民ボランティアとして活躍した人々が上海万博でも
ボランティアをしているのだ。

当時、何度も打ち合わせをしていたメンバーが上海にいるのだという。

結局、合えなかったけど・・・

それにしても・・・

あれだけ大きな話となり・・・盛り上がったり、勝手にしらけたり・・・
まぁ、所詮、自分が話の中心でないとテンションが上がらないのだ(責任感もないし・・・)。

最終的に1人の観光客として上海万博に参加しているのだからお笑いだ。

言えば、関係者に多くの知り合いがいるんだけど、連絡する気にすらならなかった。

要は気分の問題なのだ。

橋は誰かに架けてもらうのではない。自分で架けるのだ。自分が橋となるのだ。

誰かの架けた橋に渡れば早いよとか、詰めが甘いとか、とろいとか・・・

これは背が低い人の悩みと同じだ。 個性なのだ。

自分の描く絵はいつも未完成だ。

どうせ絵が完成しても飾るところがなければ意味がないことを知っているのかもしれない・・・

見せる場所、見せる観客、見せる時期がそろって完成といえるのだろうか・・・

| [旅するヨギ]上海 | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

上海万博への道のり~①

人にはそれぞれ仕事やプランでやり方というものがある。

料理にしても、旅行にしてもだ。

材料を完璧にそろえ、料理番組みたく切ったり、きざんだり、
皮をむいておいてから料理をはじめる人もいるかもしれない。

行き当たりばったりの旅行を楽しむ人もいるだろう。

分刻みの完璧な旅行シナリオを作る人もいるだろう。

さまざまだ。

自分の場合、まず絵を描く。絵コンテみたく大雑把な枠を書く。

そしてイメージを膨らませて最終の完成状態を想像する。

後は状況にあわせてそれを完成に近づけていく。

時に材料が変わったり、新しい絵が浮かんだり・・・変更をしながら最終状態へと近づけていく・・

これをマルチタスクプランニングと呼んでいる。

時に描いた絵が予想とずいぶん違う絵になることもある。

そんなことは人生よくあることだ。

価値があることや利権、欲望、などの感情が見え隠れすると絵が違うものになりやすい。

ぼけっとしていると(すなわちトロイと・・・)、はじき出される・・・

まぁ、どちらかと言うと、このお話はとろい側の人のお話だけど・・・

P1030055.jpg

今(2010年8月)では上海はとても暑い・・・日中で40度を簡単に超えているのだ。

それでも毎日、上海万博には人が訪れる・・・・
(聞いた話だと35万人近くの人が毎日いるらしい。。)

それでも、最初の頃は8万人ぐらいしかいなくて政府の人達もあせって
(万博動員人数世界一を狙っているので!)、上海市民全員に入場券を配ったりしていたらしい。

今では毎日、老若男女が楽しめる(すなわちゆるい感じの)パビリオンに何時間も並んでいるのだ。

途中で我慢できずに列の途中でトイレを済ましてしまう人などいて大変だそうだ。
(信じれないけど本当の話。)

中国各地、全国から上海に人が集まってくる。文化も言葉も違う。もちろんマナーも違う。

当たり前だ。ここ100年ぐらいの間、日本も含め欧米列国にかき乱され、文化もプライドも犯され
続けてきた国なのだから・・・我々に非難する権利はない。事実を冷静に見て感情的にならないことだ。

感情的になっている人達がいる。

上海人だ。

彼らは自分達を中国人とは呼ばない。上海人と呼ぶ。

右ならえ教育で統一した日本人から見ればどうかは知らないが、
上海人が万博に来る地方の中国人のマナーの悪さに心を痛めているようだ。

心を痛めているという言い方は少しオブラートに包んだ言い方だ。

万博に行って視界に入ることすら嫌らしい・・・

欧米人もそうだけど、彼らの人種、階級区別は日本人の意識では理解できない。

結局、アメリカでも欧米人のようには自分は振舞えなかった。レストランのウエイターにも
ちゃんと敬意を示してしまうのだ。これが自分流だ、と言い聞かせた。

ただ、彼らにそういった意識が無意識にあるというということは知っておく必要がある。

何十年前まで奴隷制度、女性の選挙権や発言権のなかったのが欧米や中国なのだから。

それにくらべなんと女性に優しい国なのだ、日本は。卑弥呼さまさまだ。結果、男性に甘えて
自立できない人が増えてしまったけど。。。

中国やアメリカは ”セックスアンザシティ” のような自ら力を勝ち取る女性が多いのだ。

と、話はどんどん脱線しながら進めていこう。

あえてどんどん脱線しよう・・・

描いた絵も脱線してぐちゃぐちゃなのだから・・・



| [旅するヨギ]上海 | 10:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

名古屋のアシュタンガヨガの現状。

この内容を書くのは自分の目に映った状態なので、ある人からは反論や異なる意見があるかもしれない。

それは違うと思う人がいるかもしれないが自分の心に閉まっておいてほしい。

間違っていれば、自分の目が曇っているだけだろうし、想像している部分もある。
それもいずれは結果として自分で自覚するだろうから・・・そっと見守ってほしいのだ。

そういえば、二アからメールが届いた。

どうやら、二アはインドで奮闘しているようです。

サンスクリット語でのカウントをみんなの前でするのも初期に終わったようだ。

今年からインドでオーソライズ(認定)の為のTTがシャラスの元で始まった。

そのせいか、9月のシャラの再開は満員だ。

10月の終わりまで・・・・

世界中のオーソライズされたいティーチャーが集まる、集まる。。。

オーソライズなんて雲の上の存在のプラクティショナーにとっては
迷惑な話だ。あの真剣な場所での練習が好きなだけなものにとっては・・・

二アが言うには、世界中から色んなサイズの人々が集まっているから
アジャストが大変らしい。。。

二アは運よくマイソールクラスを現在担当しているけど、一般的には
新米のオーソライズティーチャーは世界中のマイソールクラスの代行の
ために世界を回ることになる。

あるものは自分でもマイソールスタイルで教室運営を始めると思うけど。

自分でも始めてもやっぱり自分の練習の為にインドに行かないといけない。
(*オーソライズティーチャーも1年半に1回はインドに足を運ぶのがルールなのだ。)
だから、トラベリングティーチャー達は世界中を巡る。

自分の練習の為に・・・とっても良い響きだ。

そんな意味のマントラはないものか・・・

玄関に飾りたい。

現在、トムのマイソールクラスも好評だ。

自分も日本での仕事をささっと片付けて飛び出したいものだインドへと・・・・・

マイソールクラスとは同じ時間に毎日(せめて週3回~6回)同じ練習を繰り返す。

違うのはむしろ日常だ。出会う人、食べるもの、見るもの、読む本、する仕事・・・

それらの影響が体に及ぼす変化を、時に前日の練習が及ぼす変化を観察する練習なのだ。

そう言った練習の本質を知らずに名古屋では始まってしまっていたのだ。

アシュタンガ・ヴィンヤサヨガというものが。。。

正直言って、4、5年前には自分も理解していたか?というとノーだ。

アシュタンガヨガの決まったポーズをカウントにあわせて練習するスタイルのレッドクラス。

これはあくまでマイソールクラスでの自分本位過ぎるスピードと呼吸を調整するクラスだ。

毎日するのもちょっと違う気がする。

細かいポーズのポイントなどは毎日していれば段々見えてくるのだけど、やっぱり気になる人は
レギュラークラス(アシュタンガ初級やアシュタンガベーシックなど)を受けてみればいいと思う。

数ヶ月参加してみて、慣れたらマイソールクラスに参加したらいい。

アシュタンガとはヨーガスートラ、パタンジャリのヨガのことをいうのだ。

ヨガ哲学からの知恵を練習や日々の生活に反映させないで、
どんなリアクションが練習に産まれるというのだろう?

マイソールスタイルで毎日練習すること(ヨーガスートラの自習と共に)は、
本当にすばらしい気づきをもたらしてくれると思うがヨガ講師でない限りスートラの勉強をするのは大変だ。

((ヨガ講師でもスートラとは何かすら言えない人もいる。))

だったら、1回で1レッスン完結のヴィンヤサヨガに参加したらいい。
アーサナの順番が決まっていないので伝えたいヨガ哲学(ヨーガスートラ、ウパニシャッド、マントラ、
ハタヨガプラティピカ、ベーダーンタ、なんでもよい!)をポーズで理解を深めるのだ。

バンダを理解するものでもよい。呼吸にフォーカスするものでもよい。

何かに1つ集中するには何かを1つ犠牲にすることなのだ。

時にヴィンヤサから離れることが(陰ヨガやリストラティブヨガ)、
逆にヴィンヤサ(アシュタンガ)をより理解することとなることすらあるのだ。

これらすべてのヴィンヤサスタイルを含めて、アシュタンガ・ヴィンヤサヨガなのだ。

時に、スートラの坐学講座なども開いたりして、
名古屋のアシュタンガヨガは、ここ数年少しずつ輪を広げている。

二アも名古屋初の正式認定者となるだろうから、信頼度ももっと上がるだろう。

もっとも、ひいき目なしにオーソライズされてもおかしくない熱心な人々はいっぱいいるのだ。
スートラもある程度理解していて、アーサナも理解していて、アシュタンガヨガ自体も理解している。

ちゃんとインドに通って、
英語を覚えてシャラス先生とコミュニケートすれば認定されておかしくない人はいっぱいいるのだ。

後はどれだけ自分の生徒とちゃんと向き合い、そこからどれだけ学ばさせてもらっているかだ。

確かにアシュタンガヨガの練習をしている人々は大衆の人々の中では相当なくらい端にいる人だ。

しかし、本質を求め、普遍なものに興味を示す人々だ。

普遍とは、広く行き渡り、何にでも当てはまり、何にでも共通することだ。

この輪が少しずつ大きくなっているのが嬉しい。

まだまだ何も知らずにヨガを始めている初心者の人を見て・・・しめしめ・・・と思う。

本質に目をむけ、自分と向き合い始めたのだ。入り口のドアを叩いた時点でその要素を持っているのだ。

まだ気づいてないだけで・・・

ここで、ヨガを伝えている人は自分には資格がないのでは?と言われていると感じるかもしれない。
そんなこといったら自分にもないのだ。自分も曇りが晴れている過程にある生徒なのだから・・・

我々は大きな海の小さな波なのだ。

少しずつ大きな波にしていけばいい。

自分が海であると感じたときに・・・

名古屋のアシュタンガヨガ界は面白いことになっているのかもしれない。

マットの上での練習は、オフザマットに影響する。


| [ヨギの独り言]ヨガカルチャー | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

色んな種類のヨガがありますが・・・

多様化しているのは・・・

どんどん変化して種類が増えていっているのはヨガの種類ではないと思う。

そこんとこが根本的に混乱と無知を招いている元なのかもしれない。

インターネットとかでも○○ヨガといかいっぱい見る。

だから確かにヨガの種類っていっぱいあるんだな~っ・・・って、思ってしまうが、

多様化しているのはヨガをする人々の種類なのだ。

前は流行に敏感な人たちが飛びついたり、精神世界への好奇心を持つ人達が飛びついたりだったけど、

今では何の目的なしに参加したりする人や、
なんとなく健康になろうと参加する人や、
本当に身体の不調を訴えてくる人や、年齢も幅広く、
女性だけではなく男性まで多様化している。

筋力がないことで自分の身体を支えれないことから、
ある意味柔軟な人から、
筋肉がしっかりついているから、
身体が硬い人まで
本当に多様化している。

1つ大事なこと。

ヨガは普遍なものなのだ。

普遍とは、広く行き渡り、何にでも当てはまり、何にでも共通することだ。

本質的に、ヨガの内容において、心の作用に関してのものであることが共通項だ。

現代人の特徴として(情報社会で騒がしいという特徴から)、集中力が散漫で、すなわち忍耐力が弱く、
新しいものに手を出したくなるのは分かるが、
絵を描くための画用紙をアレコレ選んでいる状態のようなもので
少し描いてはまた違う紙を選び、それを繰り返しているようでは肝心の絵は何も描かれていないのだ。

結局は絵を描く人が重要なのだ。

植物も種の時もあれば、芽が出るときもある。

葉が生い茂るときもあればつぼみが大きくなる時期もある、

そして花が咲くときもあるのだ。

その花が枯れ、力強く幹だけが残ることも・・・

その状態の変化が多様化しているのであって、
植物の種類が多様化しているのでは混乱するだけだ。

そしていろんな例えに自分が混乱してしまった・・・・

キャンパスに両手で絵を描こうとしたようなものなのか・・・

描き方と選ぶ色も重要だ・・・

ちなみに、ヨガというテーマで話しているがこの内容こそが普遍なのだ。

ヨガという文字を多くの習い事へと置きかえれるし、

「ビジネススタイル」とも置きかえれる。

「人生の生き方」とも・・・


| [ヨギの独り言]ヨガカルチャー | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

8月のヴィンヤサクラスのテーマ

今月のテーマは『祝福を与えることの大いなる力』

アメリカではクシャミとすると、Bless you!! って幸あれっ!見たいに言ったりします。

日本では誰かを祝福するって言われても、ピンとこないかもしれません。

○○さんが健康でありますよ~にっ!

とか、

有り難う!○○さんに感謝します!

・・・的な感覚が日本の人々の Giving Blessings のニュアンスかもしれませんね。。。

シャロン先生もよいテーマを与えてくれます。

今月は途中で訳する力が尽きてしまいました・・・途中から、Akkie の訳です~

【The Magical Power of Giving Blessings】

ヨガのプラクティショナー(ヨギ)にとって悟ると実感するということとは、生きとしいけるものが1つと感じることです。 このヨガを練習する人々の立場において、すべての分離されたものとは自己とその他の展開されたもの(プラクルティ:自性からの展開されたもの達)です。 ヨギは(彼/彼女)自身をすべてのものが統合し1つであると実感し、そして、世界(プラクルティ)はもはや外に流出しない(展開しない)のです。 私はかつて多くの人々が聖者であろうと考えてられている人から手紙をいただきました。 「親愛なるシャロンへ」というような一般的な挨拶から手紙が始まるのではなく、「あなたという形状でおられる親愛なる私へ」という挨拶から文章が始まっていました。

ヨガの練習の為に役立たせる為には、何がヨガの最終目標への障害となるのかを知ることが不可欠であり、その障害から打ち克つ方法をヨガの練習生(プラクティショナー)に指し示さなければなりません。 すべてのものが1つであると認識すること(ヨガ)への主な障害は他の者達と自分自身の自己とを別のものとして感じてしまうことです。 その理由から自分以外のもの(別のものと思ってしまうもの)をなくしていったり、少なくともこれらの別のもの達が本当に誰なのかという認識を浄化したりする手段としてヨガの練習がないといけません。 その認識が浄化されたときに自分の周りに実際に登場するすべてのものが自分自身の内側からわきあがったものであると気づくでしょう。 自分自身の内側で起こることというのは自分の外側の世界で現われる人々の影響をうけているのです。 なので、もしも誰かの振る舞いが気に入らなかったり、本当に彼らの振る舞い方を変えて欲しいと思うようなことがあれば、それは自分自身の過去から浮かんだ幻影のように彼らは振舞っているに過ぎないと認識する必要があります。 彼らが変わるようにわざわざせがまないようにするべきです。 それどころか、自分自身の彼らへの振る舞いを変えることによって自分が彼らに望む変化を開始するべきでしょう。 幸せを祈っていくという練習はとてもよりよい練習方法でしょう。

ただ単に祝福を受けとる人のためだけではなく、だれかの幸せを願う人自身のためにも祝福していくという行為には偉大な力があります。 だれかの幸せを願っていくことは喜ばせることなのです。 幸せを祈っていくことを通じて無限の愛は微細なエネルギー的に1つの身体から別の身体へと送られます。 周りの者の幸せを願っていくことを通じて、愛の送られる道を形成することが彼らを大いなる存在へと導けるでしょう。 そして、その愛が送られる過程において、あなた自身が大いなる存在となるのです。 なぜなら、その微細なエネルギーが送られる道はあなたを始まりとして伝わっていっているのですから。 声を発して誰かの名前を呼ぶのはものすごく強力な行為です。 もしも自分の名前を呼ばれたら多くの人は振り返らずにはいられないでしょう。 日々の感謝を誰かの名前と共に行ったのなら、継続的な時と共に人生に関わる人々やあなた自身を大いなる存在へと導くというポジティブな結果を、その行為の特性は生み出します。

祝福の与え方を説明しましょう。私はそれを“
祝福するための瞑想“と名付けました。楽な姿勢で座り、目を閉じ、呼吸に意識を向け、全ての吸う息と吐く息を感じましょう。最初はあなたが良く知っていて、愛している人達から始めましょう。その方が祝福を与えやすくなります。声に出さずに、吸う息で”祝福を与えます。“と唱え、吐く息でその人の名前を唱えるのです。何度かそれを繰り返し、あなたの祝福の相手を広げていきます。家族や友人、それから他の人、例えば昔の恋人、近所の人、仕事上の上司や部下へ。他の人には、あなたが現在あるいは過去において難しい関係にある人を含めることを忘れないでください。あなたがその人達の名前を呼ぶと、その姿が目の前に浮かぶことでしょう。やがて着実に練習を続けていくと、あなたは彼らの姿だけではなく、その存在すらも感じることができるようになるでしょう。彼らとの間の困難な問題は、段々と消え去っていくでしょう。そうして時が経つと、あなたが気づくのは、彼らに実際に出会ったとしても、彼らとの関係は不思議なことに劇的に変わってしまっているということなのです。あなたはお互いの交流に新たな安らぎを見いだすでしょう。彼らはあなたにとても友好的でしょう。他の人があなたの外側から現れるという感覚は、彼らが本当はあなたの内側から生じ、現れてくるということに気がつくにつれて、減っていくでしょう。

でも、すぐに効果が現れることを期待しないで下さい。忍耐が、あなたが新たな現実を育む際には重要なのです。全ての行い、それが思考のように精妙なものであろうと、言葉や行動のようにもっと形あるものであろうと、それは土に植えられた種のようなものであり、やがてあなたの存在の根底をなすようになるのです。種は育つまで時間がかかります。そして、健康的に成長するための時間だけでなく、種を育てる正しい栄養も必要です。継続的な愛情を込めた手入れは、ポジティブな結果を生むでしょう。あなたが植えた種が芽を出し始めたとき、あなたは喜びを持って見いだすのは、(訳注:先ずあなたの心の中が変わることにより、その反映として外部に存在する)周りの人々が成長し始め、彼らにこうあって欲しいと思う人々へと昇華する様子です。そしてあなたは、あなた自身も既になり得た自分であったことを見いだすのです。


-Sharon Gannon

| [ヨギの独り言]Yoshi ヨガクラス | 11:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

2010年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年09月

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。