あるヨギの独り言

毎日を楽しく生きるヨギの自叙伝(日記)。 名古屋でのヨガインストラクターとしての生活やヨギとしての旅を続けるYoshiの成長日記です。

2010年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年12月

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ヨガのティーチャートレーニングに参加する人達。

今年の夏に弟が上海でヨガのティーチャートレーニングに参加した。

インスパイヤーというオーストラリアのティーチャートレーニングを
チームで組織している人達のに参加したようだ。

数年前にヨガジャヤのパトリック先生もRYT500時間に参加していたはずだ。
そのスタジオのサイモン・ボルグ(だったかな?)はヨガジャヤのTTのメンバーの1人になっているはずだ。

まちがいなく、今のヨガジャヤのTTの原型となっているものに違いないと思う。

テキストやTTの内容を聞くと良く出来ているし見ていて面白い。
自分が行なっているTTの為になるか?というと・・・
自分でいうのは何だけど、日本人には完成されているだろうと思われるものを作り上げてしまったから
あまり参考にならないといえる。
まぁ、ティーチャートレーニングといってもヨガの基礎となる部分を200時間だけ習うものなのだ。

そして、重要なのはその内容をどう習うのか?どの過程で理解と実践を踏んでいくのか?なのだ。

すぐに楽にインストラクターになれてしまったり、人数だけやたらと多かったりのものとは比べる次元が
違うのでこういったTTに参加したことがある人達にしか分からない感覚の話はするべきではない気がする。。

それより興味を持ったのは上海のTTに参加している人々だ。

やはり人という変化のあるものは面白い。

TTの値段は日本のように50万も60万もしないけど、中国の人にとっては高いはずだ。
けど30名近い人々が参加しているのだ。
日本人も弟を含めて3名ほどいたらしいけど、残りの半分は上海の人々、そして残りは他の都市からの参加らしい。

中国では教育が偏っているので、バレエダンサーを目指していた人、体操選手を目指していた人、
武術者を目指していた人、など一点集中の人が多いようだ。

何かに優れた人を作ろうとする英才教育だ。
10億もいれば何かに集中しないと職を手にしたり出来ないのだろう。

ヨガのティーチャーを目指す人にはやはり、ダンサーだったりバレリーナだったりする人が中国では多いらしい。確かに、アシュタンガのティーチャーのニアとかも元々バレエをしてたし、短期間でオーソライズされる柔軟性を元々もっているのはある意味才能だといえる。

弟の話を聞いていると面白い。
彼等はTT終了後、ヨガで稼がないといけないのだ。
だから、TTの技術でもその為に必要と思われる部分に関しては目の色が変わる。 

逆に必要ないなと思われる部分(先生でもない生徒さんが自分の判断で決めているところがおもしろい!)では遅刻したりさぼったりが頻繁にあるらしい。

日本だったらヨガなんだから倫理観的にいいのか? とか、
先生に対して失礼じゃないのか? とか言う人がいるかもしれない。

まぁ、態度、行動は巡り巡って自分に帰ってくるだけだから自分は何も言わないけど。。。

あるヨガの先生に、ヨガの先生はどうしてそんなに大阪や東京や全国にワークショップしに行くんだろうか?
特別に広めたい流派や特別なスタイルでもないのに。。。
って話をしたら、ヨシはヨガ界で有名になる必要がないから分からないよ。って言われたことがある。

確かに、上海のTTを受けている人達の話を聞いていると日本にはないアグレッシブさがある。
流派やスタイルやその地域のヨガをする人々のためという大義もない、
自分の名前を持ち上げるためのアグレッシブさと似ている。

スタジオの方が有名になってくれたらスタジオの講師達が喜ぶだろうな。。。
というのはあっても、個人の名前が有名になるのにはあまり興味がわかなかったりする。

ブログなどもヨガに関して読んだ人が新しい楽しみ方を見つけてくれたらいいな。。。
とか、自分のレッスンに参考にしてくれたらいいな。。。ぐらいだ。

もちろん、多くの人に説得力を持たせたかったら、自分自身の認知度をある程度あげる必要があるのも分かる。

アグレッシブな人は時にまぶしいぐらい輝いているのだ。
(メリットとデメリットをどちらも持ち合わせているけど。。。)

と、同時に、

禅の言葉じゃないけど、本当に輝いている人は自ら前にでなくても周りが前にどうぞどうぞと、
きづけば上座にいるようになっているのだ。。。

どちらの道を進んでもティーチャーであることには変わりない。

個人の個性を大事にしつつ、自分の練習も大事にしつつ、
教えるための練習もしていかないといけない。

何はともあれ、学びの場所という雰囲気がやはり好きなのだ。

そこに浅はかな欲望や、矛盾する希望が結果としてあったとしても、その過程は純粋なものなのだ。

TTの話を聞いていて心地よい。。。
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| [ヨギの独り言]独り言 | 14:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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開放感を感じています。

ちょっとした繋がりからバリ島に来ています。(短い時間ですが。。。)

何をしているか?というと、バリ島の空気を感じながら人の話を聞いたり、話したり。。。

よく行くあんな店やこんな店には足を運べてません。こんな時も大事です、

年齢と共に自分で何もかも決めて立ち向っていく中、
同じように責任を持って自分で行動している人達の先輩方の姿や姿勢に触れることが
さらに頑張る勇気と力をわけてもらっている気がします。

最近、何をそんなに急いでいるのか?

というような質問を少し前にされたのですが、周りからはそう見えるのかなぁと思いました。

自分自身のスピードは何も変わることなくいるつもりですが、
周りの過ぎ行くスピード感を早めてみているのは事実です。

車の席に座っているのと、新幹線の席に座っているのは、どちらもじっとしている作業ですが、
周りの過ぎ行くスピードは違っています。

その景色に対応できるように判断と思考の決断までのスピードをあげているのですが、
確かに負荷がかかっています。

そういう意味では、一カ所に留まっているのではなく、
場所を変えて客観的に物事を見たりする作業は大事だと再確認しました。

どんなに相手のことを考えても自分目線(自分本位)で物事を考える人は
相手を理解した気になっているだけで分かることはないのです。自分もそうでした。
客観的に外から見ることで把握できたりすることで解決策が見つかることもあります。

すべては自分の我を横に置いておいて、相手の立場になって場の雰囲気を読むことが
自分自身と周りをコミュ二ティを社会をよくする唯一の方法であるのだから。。。

早く2011年になってもらいたいものです。

個人的にはやっと混沌とした雲の中から脱出するかのように来年が光を指してまっている感があります。

扉を閉じて力を溜め込んでいた箱が溢れでそうな感です。

さてさて、明日は2年間かけてバリ島に自分の城を構築していたHさんのほぼ完成された建物を見学します。

自分も長年色んなプロジェクトに関わってきましたが、
始まりから出来上がるまでが1番輝いている時期なのです。

出来上がることで次のプロジェクトが輝きだすからですが、明日に1番の輝きを見てから帰国します。。。

| [旅するヨギ]バリ | 22:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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語り部であり見せ物であるのか?

ヨガを伝えるものとしての、

60分、75分、90分、などの1レッスン(1コマ)という
長さで完結しているヨガのレッスンを提供するものとして、

1つの完成された、
というより、
1つの信念をもたれたものである必要があると思う。

ヨガのアーサナ(ポーズ)によって人々はどこに導かれているのか?

信念というと肩が重いのだろうからテーマというと分かりやすい。

こないだテレビで面白いことを言っていた。

昔話や伝説は口頭により伝えられてきたのだ。

有名な『あかずきん』や『シンデレラ』もそうだ。

それがいつの日にか絵本や映像で伝えれられるものになった。

なってしまった。

なってしまったのだ。

いつものことだが、それにはメリットとデメリットが付いてくる。

映像は目で伝えられるから内容(状況)が複雑になったのだ。

口頭でつたえられる場合ではそうはいかない。

シンプルにしないと混乱する。

そして何度も何度も同じような状況を繰り返すのだ。

確かに言われてみると、昔話では登場人物は色々いても、
会話の時には一対一の場合が多い。

桃太郎もお爺さんとお祖母さんは芝刈りと洗濯で別々だし、
その後、桃太郎も家来達と一人ずつ会っていく。

分かりやすいように主人公が一人の登場人物人物と会っていくのだ。
同じようなことを言い方を変え、伝え方を変え、
天気を変え、季節を変えて伝えていくのだ。

口頭で。

耳から聞いた内容は、それぞれの聞き手の過去の記憶を
くすぐっていく。。。シンプルであればあるほど、
ゆっくりと自分を見つめながら、
自分の内なる沈黙と向き合っていく。

それはまさに意識を集中することにより無意識がくすぐられているのだ。

目で見た映像では車や電車で窓から見る景色のように
情報過多にして頭をぼかしているに過ぎないのだ。
それはエンターテイメントではあるが、
内なる気づきは何処にあろうか。

視覚では多くの情報をいっきょに手に入れているように思える(勘違いしてしまう)
のだが、視覚も聴覚も感覚器官として本質的には同じである。

1個に集中すると他の雑音はなくなる。言い換えると、他の音が雑音になるのだ。

映像も同じ。1個の部分に集中すると他の部分の映像は雑像になるのだ。
一枚の絵として完成されているから他の部分を予想したりして見えている気がしているだけだ。
無意識の世界の扉は閉ざされてしまうのだ。

これが音の世界は知識や知恵などの富たる教養と結びつきやすく、
映像や色彩の世界がエゴや娯楽と結びつきやすい傾向のゆえんなのかもしれない。

あくまで傾向の話だけど。。。

そして、これもまた仮説の話が続くのだけど・・・

世界最古の職業は語り部だと思う。
それか、見せ物屋かもしれない。(現代のサーカスだ)

さてさて、ヨガに関わるものはどちらであろうか?

自分はどちらも大好きだからよく分かるのだ。
それぞれは分けて考えなければならないのだ。
どちらのモノを提供されているのか?(生徒として)
どちらの状態を提供しているのか?(先生として)

どちらも大切な要素なのだけれども・・・

それが絶妙に組み合わされているところに1レッスンの
完結されたものとしての味わいがあるのかもしれない。

ある瞬間は、

「魅せてくれるねぇ~」の場面あり、

ある瞬間は、

「そうかっ!」のような光さす瞬間の場面あり。。。


自分のクラスに参加してくれている生徒さんの反応をみていて、やはり
耳を傾けているときにのほうが深い集中にいる気がする。

もちろん家でDVDなどを見ながらするのに慣れてしまっていたり、
いつも鏡の自分を見るのに慣れてしまっていたりだと、
耳を傾けることに嫌悪感を出す人もいるかもしれない。。。

一期一会、一期一音なのだ。

我々は生徒を選ぶことはできないが、内容を選ぶことはできるのだ。

家に帰ったらまず、うがいなのだ。

| [ヨギの独り言]独り言 | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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11月のヴィンヤサクラス

11月は大阪の佳子さんが訳をしてくれました。

佳子さんは以前に名古屋までマイソールクラスも受けに来てくれたアシュタンギです。

さてさて、今月の課題は ASTEYA (アステヤ)であり不盗だ。

ヨ-ガスートラの実践編の1つめのヨギとしての5つのルールのうちの3つめにあたる。

このテーマは興味深いものです。インテグラル・ヨーガでは解釈にページが使われていながら
グレゴーリ・メーレさんの現代人のためのヨーガスートラではあまり触れていません。

現代において何が盗んだことになるのか?何が富であり成功であり繁栄であるのか?

その当たり前の文字の定義が曖昧になってしまっている気がします。

盗みとは相手の所有物を取り上げることですが、それが考え(思考)であったり、
言葉であったり、行動である場合があります。

考えにおいては他の人の所有物(時に身長や体重などの持って産まれた才能だったり)を羨ましがることですら
当てはまるかもしれないし、自分の考えとかではなく誰かの言い方を取り上げたり、行動において物を
取り上げたり。。。

社会においてはその利益を独占するという行為が盗んでいるという解釈にもできたり。。。

1つ重要なことはヨーガスートラは最高の幸せを手に入れる為の究極の方法を記したものなので、
そうしないといけない!という訳ではないことです。

より幸せな考え方や人との接し方や行動をするんだったらアステヤを意識するといいですよ。

ぐらいでいると現代社会では楽になるかもしれません。

ところでタイトルにヴィンヤサクラスとありますが、今月のテーマは隅々まで探しても
アーサナによる気づきに運べれる気がしません。。。
所有するという感覚において物が物体してあったりアイディアとしてあったり、音源としてあったり、
データとしてあったり映像としてあったり共有という形であったり、、、
その感覚の境界線がある意味自分の中で崩壊している点でどうも表現できる自信がないです。

申し訳ない。。。

なので、欲求に関する意識を高めて正常化するヴィンヤサだったり、アライメントを再確認する
ヴィンヤサだったりメンバーに合わせて色々チャンティングするクラスだったりになると思います。。。


ではでは、ジヴァムクティはシャロン先生によるコラム、今月のクラスのテーマです~

↓↓↓
Asteya and Veganism

asteya-pratishthayam sarva-ratnopasthanam (PYS II.37)
When one stops stealing from others, prosperity (material, mental, and spiritual) appears.
他の存在から盗むことを止めたとき、繁栄(物質的、精神的そしてスピリチュアルな)がもたらされる。


ヨガスートラには、パタンジャリによる5つの助言が載っています。
ヤマといい、自由を得るための他者への接し方なのです。
3つめのヤマはアステヤといい、不盗を意味します。
ブラフマナンダサラスバティは盗みとは「他者から違法に横取りすること」
と定義しています。
人は搾取されていると感じるから、もしくは劣っていると思うから盗むのです。
他者から奪うことで、自分の欠点を補おうとするから盗もうとするのです。
私たちが物を盗む時、それは将来に影響する恐ろしいカルマに繋がっています。
しかしヨガのプラクティスを通じて、自信を持ち、すべてのものとの一体感、
完全であるという感情をもてるようになります。
安心するために盗む必要はないのです。
肉、乳製品、ファッション業界は、赤ちゃんにあげるための母乳、温めるための羊毛、
生まれるときに皮膚をくるむための毛皮を盗むことで成り立っています。
動物を閉じ込めておくのは彼らから一生を取り上げることです。
動物を殺して食べるのは彼らから命を奪うことです。
肉や乳製品業界は、動物たちに生きる目的があって、それは人間に搾取され利用されることではないと
いうことを我々の目から隠しています。
肉や乳製品を食べる時、動物は私たち人間のために存在するのだと思っているため、
彼らから盗んでいるという意識はないでしょう。
事実、そういったことを質問するのはおかしいとさえ思わされています。
しかし本当は、動物が私たち人間に売買されることに納得しているわけではないのです。
勝手な理由で彼らの命を奪っているのです。
パタンジャリによれば、物質的、感情的、精神的な面でもよいことではないのです。
誰かが言いました、「もし誰かが肉を食べたとしても、それは彼らの問題であり、
反対することではないし、彼らの嗜好にあわせていけばよいのだ」と。
ヨギとしての回答は、自分たちのすることはなんであれ全ての人に影響するということです。
誰かが肉を食べることは、皆に影響するのです。
肉、乳製品業界は地球環境に対して甚大な影響をもつからです。
肉を食べることで、動物のたくさんの命を奪うだけでなく、次世代に生まれ来る世代から綺麗な水、
空気を奪っているのです。
たくさんの人間が飢えている時に動物の苦しみを気にかけることはできるでしょうか?
はい、人間のことを考えずに動物のことをいたわるわけではなく、菜食主義は地球にも世界の飢えを
減らすことにも直接つながるのです。子供は2秒に1人死んでいます。
1ポンドの肉を作るのに15-20ポンドの作物を必要です。
アメリカ人の肉を食べる人の10%が菜食主義になれば、毎年飢えで亡くなる6千万人の食料に相当する
1200万トン以上の穀物になるのです。私たちが盗まないというプラクティスの素晴らしさを理解できる
ようになれば飢えを克服し、食べるものを十分得ることができるのです。

| [ヨギの独り言]Yoshi ヨガクラス | 10:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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