あるヨギの独り言

毎日を楽しく生きるヨギの自叙伝(日記)。 名古屋でのヨガインストラクターとしての生活やヨギとしての旅を続けるYoshiの成長日記です。

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ヴィパッサナー瞑想への旅<番外編>

【番外編】無意識について


無意識という言葉を使ってしまったので、少し無意識とは?

に触れたくなった。

ヴィパッサナーのコースでの夜の講和では真理の哲学を学ぶのに多くのたとえ話が
でてくる。

ある目の見えない子供達が動物と触れ合う機会を持てたのだという。

子供Aは、その動物に触れながらなんて堅く柱みたいな動物なんだろう~と言った。
子供Bは、なんて安定しているだろう!床の上にいるみたいだ!
子供Cは、ヘビみたいだ~と言った。
子供Dは、ほうきみたいに毛が集まった動物なんだね~

この動物は象さんだった。ある子供は足に触れ、ある子供は背中に乗り、
ある子供は鼻と遊び、ある子供は尻尾に触れる。

彼らは象さんの話となれば、その印象の深い部分を最初に浮かべるだろう。

自分の思っている印象の!

特に自我への執着が強くエゴのコントロールに勝てない人ほど自分の印象の意味で
持って会話を進める。

何かの説明をしても、「ああ~分かった、分かった。」といち早く答えて・・・
後の行動を観察していると、明らかに分かっていない行動をとっていることがある。

逆に、「あなたの行動の意味が分からない・・・」と思っている人が近くにいたら、
自分自身の言っている意味を履き違えていると思った方がいい場合もある。

太く柱のような足を持つ動物をゾウと言っているのか?
安定した広い背中を持つ動物をゾウと言っているのか?
長く柔らかい鼻を持つ動物をゾウと言っているのか?
堅いホウキのような毛を持つ動物をゾウと言っているのか?

聞き手がゾウと聞いて、「ああ、あの鼻の長い動物ね・・・」と思っていても、
話し手が「あの、太い柱のような足を持つ動物」と思って、そこを中心に話していたら
話が通じないのだ。

正しいコミュニケーションにはいつも、相手(話し手)の立場になって考える思いやりと
想像力と記憶力が大事なのだ。

私(聞き手)は「像と言えば鼻の長い動物のことだから鼻について話していると思った!」

と、言いたいかもしれない。

だから、話し手の意味を理解できなかったわけだし、話し手の言いたい意味を理解しようとする
思いやりの心がない人(自分勝手)と言われても仕方ないのだ。

ゆっくり、相手の言うところの像の意味とは?ということを考える忍耐強さも必要なのかもしれない。

これが相手が特定されていないネット社会、相手の表情が見えない電話社会がもたらしたデメリット
なのかも知れない。もちろん、不特定多数に発信できたり、伝えるべきことを早く伝えることが
できるというメリットも存在するので悪いという意味ではない。

と、前置きが長くなったが・・・・

無意識という言葉だ。

よく自分のヨガのクラスは、
「普段、無意識に行っている呼吸を、意識的にしていきましょう~」
と始めることが多い。

どうやっていくのか?には、色々テクニックがあるのだが...

よくヨガのポーズでも、
「先生がやって見せてくれないので分かりづらいです。」
「何も考えずに見せられたポースをただしていきたいです・・・癒されたいだけですから・・・」
と、いう風に言われることがたまにある。

そんなマッサージみたいな感覚で(無意識を求めて)来られる方には・・・

「鏡張りのなんちゃってヨガスタジオに行って下さい!」

とまでは言わないけど、「残念ですね~と慰めるしかない。」

まぁ、何もしないよりは幾分ましだからだ。

自己満足を増長させるだけだからエゴは高まりつつあって
本来のヨガの道でいうと脇道なのだろうけど、それに気づくための道でもある。

無意識という『単語』ですら、色んな立場から見ると解釈も違っていたりする。

認知心理学的に【意識と無意識】を考えてみると、
人というのは心を持つことが前提であり、
その心の領域に『意識の領域』と『無意識の領域』があるのだ。

無意識の領域とは奥底に位置していて、思い出したくないこと(嫌な体験、トラウマ)や
嫌なこと(ストレスなど)は無意識に押し込められていると考えるのだ。

また、認知科学的に 【意識と無意識】を考えてみると、
心の働きのうちで、意識のレベル(水準)が下がっているときに、自覚できないような
感覚、覚醒レベルを無意識と見ている。

なので、集中の仕方や、注意の向け方や、記憶の仕方で、
意識されたりされなかったりすると考えられています。
すなわち、その時に環境だったり、人との接し方だったり、文化的要素だったり、
自分自身の状態(脳、神経、身体の感覚器官の機能)のレベルだったりする。

自分は心理学の専門家ではないので、勝手な意見なのだけど、
ヨガのテーマは、
チッタ ヴゥリッティ 二ローダハ (走り書きなのでサンスクリット語は分からないけど・・)
なのだ。
『心の働きをゆっくりにしていくことであり、観察していくことであり、
心の働きからの影響を無くしていくことなのだ。』

なので、ヨガでいう心の動きとは、
上の2つの【意識と無意識】で言うとどちらも含んでいる気がする。

どちらか一方では説明が不十分だ。どちらか一方と思って【無意識】を聞いていると
会話が成り立たないのだ。

まぁ、ここまで書いて、分かる人にはわかるし、無理な人もいるだろう。
文章的には分かるけど、実際の練習などを体感でしていない人は解かることはないだろうし。。。

なにはともあれ、

『言葉を発することって大事なんだ!』

注意をしないと、意味がずれていく。
伝言ゲームをしたら最初と最後で内容が変わっているのがそうだ。

ヴィパッサナー瞑想への旅 ⑤の時にでてきた夢の話。

夢診断とかが効果があると言われたは、研究が進んでない時代の話で、
特にフロイトなどは、
「夢を満たされない願望を補充する手段」だと言い、無意識下に押し込められた
もう一人の自分からのメッセージに違いないと約100年前に登場した考えなのだけど、
現在では、
そういった神秘的なものと考えるよりも、脳の記憶活動の作用の1つだと言われています。

夢に意味を置く人には申し訳ないけど、夢を覚えやすいレム睡眠、覚えづらい深い睡眠ノンレム
とかあるけど、レム睡眠状態から夢を覚えていて、どうのこうの考えるより、リアルな現実に
目を向けて集中したほうがいいと言うわけです。

夢を見るような睡眠中というときは、心は何かの判断が出来る状態ではないので、
思い出したくないことや嫌なことがある意識の浅いところと深いところの境界は曖昧になり、
しかし、5感などの感覚はなくなっていないので、完全な無意識にいるわけではないのです。

部屋が寒ければ気づくし、暑ければ皮膚は温度差を知覚するし、
何かの音があれば耳での聴覚は知覚するのだ。

筋力トレーニングをしてみればいい。角度を、アライメントを、フォームを、気にするあまり
鏡の自分を見てしまう。その時の鋭い感覚器官は視覚だ。

トレーニングが働いている筋肉の部分の動きに対する神経的な感覚を鋭くはしない。

これがヨガとの違いと言われているのだろうけど、そうではないと思う。

どんなエクササイズであれ動く部分があるのならば、意識はそこに集中されるべきなのだ。

その動かす場所がもしも、過去にケガをしていたのなら?過去の経験からの恐怖や痛みの記憶が
心に作用する。すなわち、心が動き始めるのだ。その動きに意識を置かねばならない。
その動きに集中しないといけない。

もしも、未来へと身体と心を進めたければ・・・・

確実なる今を通らないといけないのだ。

意識が鏡の自分の部位であったり、誰かであったりするところに置かれていたら・・・

それが、たとえいかにもヨガインストラクターのような外見の人の前であっても、
ヨガ、ヨーガと書かれた看板の下のスタジオであっても、トレーニング設備が整った
ジムであっても、いい夢を見ているのと変わらない。

本を見て運動した気になっているのと同じだ。

本をまねしてポーズしてヨガした気になっているだけだ。

もしも、この文章を読んで心が痛む人がいたらゴメンナサイ。

しかし、それは手術後の目が覚める時の麻酔の痛さみたいなものです。

夢から覚めれて、幸運を運んできたらいいと思う。運ばれる時、動きがあるとき、意識をして!

幸せとは、苦しみへのアプローチを意識的に変えたときに得る感覚なのだから・・・


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